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音が多すぎる!編曲による苦痛 [バイオリニストの愚痴]

クラシック音楽は著作権が切れているものばかりなので、その編曲楽譜が出版されています。例えば、歌曲などの有名な曲を編成を変えたりしたものなどがあります。その中に、バイオリンが編成されているものもあります。そんな中である編曲者のものですが、バイオリン譜を見ると、原曲にはない対旋律、副旋律が、それも大量に書かれているのです。音が多過ぎると言った皇帝ヨーゼフII世に、モーツァルトが必要な数だけありますと答えた有名なエピソードを思い起こさせます。

実際に施設でのボランティア演奏では、共演者と相談し、大幅に省いたり、変更してやったのですが、中にはまるっきり書き換えてしまったものもあります。つまりは全く使わなかったのです。原曲の流れに合わなかったり、音が少ないことが良い部分に付け加わっていて、うるさくなっていると感じました。そのままでは演奏する側も、合わせにくい、自分のイメージする曲想と全く一致しない、そういうことで不快感を持ちます。この不快感は演奏者にはとても大きな問題です。原曲に対する敬意や作曲家への尊敬はあるのでしょうか。変に目立つように音を付け加えているので、残念ながら、編曲者の自己満足ではないかと思います。

編曲者はバイオリンのことはあまり知らないようでした。バイオリンでは、ピアノや歌とはスラーの付け方は変わります。バイオリンにおいては、スラーでフレージングを表すことはほとんどありませんが、どうもそういう意図ではないかと思われる部分があるのでした。原曲よりスラーが長かったりするのでした。

音楽という言葉は、福沢諭吉がmusicの訳語として作ったものですが、まさに楽しいものです。こんな対旋律いらないだろう、いらいら、と感じてしまうと、なかなか演奏も辛いものがあります。なるべく、不必要な音は減らしたい、と、強く、強く、思いました。音が苦であって、musicではないのでした。
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音楽は変わった? [バイオリニストの愚痴]

先日テレビを見ていたら、女性歌手が登場。この方の歌をやはりテレビで以前見たことがありますが、うまいとは感じず、どうしてこういう歌手が出ているのか不思議でした。経歴はものすごく、MCも上手だとしきりと褒めますが、挨拶代わりのお世辞でしょう。しかし、テレビではそのお世辞を信じてしまう人も多いは間違いありません。何曲か歌っているうちに、見ていた家族が、飽きた、と言いました。そう、どの曲を歌っても同じ歌に聞こえてしまうので。これは下手な証拠と言えます。本人は自分は上手いと思っていて、だから普通に歌えば悪いわけがない、どうです、うまいでしょう、こんな感じです。

クラシック音楽では、以前のような大家はもはやいない、という意見があります。それに対して、現代のピアニストにしろ、バイオリニストにしろ、テクニックは昔のバイオリニストよりすごいし、そんなことは考えられない、という反対意見もあります。ところが、1980年代以降、世界の音楽は変わった、という意見があることを知っている人はあまりいないでしょう。そして、この意見を聞くと納得する人もいます。もちろん、1980年代以前の音楽を知っている人しか納得はしませんから、少数意見ではあります。1980年代以降一番大きく変わったのはハードロックが流行り出したということでしょうか。大音量で観客と一緒に騒いでいたりするのは、それまでの音楽とは異なる分野の音楽と思います。

アンプとスピーカでバイオリン演奏を聴かせるあるアメリカの演奏者がストラディヴァリを使った時に、非難が出たことがあります。儲かって来たので購入できたのでしょう。生音でないならストラディヴァリを使う必要はない、という意見で、音色だけの問題ではないし、何を使おうが自由だ、と演奏者は反論しました。今は日本でもストラディヴァリを使ってマイクで拾って演奏する人は普通におり、誰も問題があるなどとは言っていませんが、実際のところ、現代の製作者のバイオリンの方が、強い弦に対応しており、弾きやすさも十分で、ストラディヴァリでない方がいいことは間違いないと思います。それは、単に客を呼ぶために使っているに過ぎないと思います。買えるほど儲かっているわけですから当たり前なのかもしれませんが。

歌が上手くないと思うなら聞かなければよい、聞きたいという人がいるから歌っていいのだ、とか、多くの人が入る多目的ホールで、原則マイクとスピーカを使うことは悪くない、その方が多くの客が楽しめる、というのは、一つの理由ではあります。そして、演奏者が、お客が喜んでくれる、楽しみにしてくれる、その期待に応えるのは当然のことです。しかし、実は、お客が望むものを提供する、というのは商売なのです。そして、演奏者の側がお客の要望に答えればそれでいい、それ以外は必要ないとなると、それは商業主義となります。

1980年代以降音楽は変ったことは確かです。その一つの原因は商業主義がはびこったことではないかと思います。つまり、客が来ればそれでいい、それ以外必要ないと、演奏者自体が思ってしまったのです。そして、それは結果的に演奏レベルの低下をもたらします。1980年代以降、CDが作られ、デジタル録音が普及するようになり、商業主義が広がる環境が整ってしまいました。今でもその傾向は広まりつつあり、人々は生音よりも録音されたものや、スピーカから出てくる音を中心に音楽をイメージするようになってしまっています。クラシック音楽好きであれば生音の生演奏と録音では雲泥の差があることを知っていますが、巷に溢れる音源から、もはや演奏に対する感覚が徐々に麻痺して行く傾向にあります。ポップスでは昔はコンピュータの作るリズムは人の叩くドラムのリズムとは違ってノリが悪い、ということが知られていましたが、今はこの違いを感じることができる人は皆無でしょう。これだけでも今の演奏は昔よりレベルダウンしていることがわかります。

道具は常に悪くありません。その使い方が問題です。以前は、先生や批評家からの意見しか、演奏について客観的なことはわかりませんでした。しかし、今や音大生だけでなくアマチュアでも普通に録音して演奏をチェックできる時代です。コンピュータによるメトロノームはノリは全くありませんが、機械仕掛けのメトロノームよりはるかに正確で、これはかなり貴重です。現代はそういう最新技術との経過時期であり、商業主義による下手な演奏も廃れていくようになるでしょうから、本当の意味で音楽、つまり、それを聞くことで良い脳内ホルモンが出て、人の思考や人生に影響を与えるような音楽が、これからもっと多く生まれてくるようになると思います。
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プロとアマの差 [偉そうな一言]

プロとアマの差については、何度か述べていますが、先日テレビを見ていたら、あるプロオケがモーツァルトを弾いていたのですが、あれっ、と思って、過去にエキストラで行ったアマオケの同じ曲の録音を聴いてみました。録音ですので本番の感じとは異なることは確かですが、アマオケの方が上手いぞ、という演奏でした。もちろんそのアマオケを指導しているプロの影響は大きく、また自分が出ていたというのもあるので、やや身内びいきだとは思いますが、プロオケの方は、自分達はこんな曲はこんなに弾けるんだぞ、という押し付けがましさがあり、全然良くないのでした。細かいテクニックはプロの方が上としても、明らかにアマオケの方が音楽が聞こえてきます。アマオケの方は自分達はこんなに上手いとか、下手だとか、そういうことは関係なく、指揮者からの音楽のイメージで演奏しているのです。

多くの人が必ず陥る落とし穴が、ここにあります。これはアマでもプロでも同じようにあります。上手になればなるほど、自分達はこんなに上手なんだから普通に弾いて悪いわけはない、とか、どうだこんなにうまく弾けるんだぞ、という風な演奏になってしまうのです。音楽はどこへやら。アマとは違って、プロはいい演奏が続いてもたった一回の悪い演奏で評価されるものです。

先日のテレビのプロオケはやっつけ仕事であることは明らかで、ですからある意味真剣味がなかったと言えます。他の曲も全然良くないものでした。指揮者は若手のホープですが、実はすごい経歴の持ち主の指揮が良くないということもあったでしょう。タクトが常時 不正確でした。それでも、聴衆は大きな拍手をくれるのですから、ちょろいもんです。もちろん、そういう演奏でも喜んで聞く人はいますから、そこにいる聴衆が望んでいるように演奏した、という風にも言えます。しかし、どんな場でも真剣に弾くプロは普通におり、それは本当に美しい演奏であり、美しい姿勢でもあります。常に私達の手本なのです。

聴衆は楽しみたいという思いから、あまり良くなくても少しでも楽しもうとします。特に無料の演奏会ならばうるさいことを言わずに楽しむものです。それは決して悪いことではありません。そして、そういう演奏を聴いた人々が同じ演奏家達の有料の演奏会に行くかというと、行かないでしょう。無料の演奏会で十分と判断します。演奏というものは時として、人の一生に関わるほどの影響を与えることがあります。このことを知っていれば、どこであろうと真剣に演奏することがとても大事になります。これこそが演奏家のあるべき姿勢だと思います。

まとめると、プロオケのやっつけ仕事よりも、アマオケの真剣な演奏の方が音楽が聞こえてきて上手、ということがあった、となります。
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勝つ者が強いならば [偉そうな一言]

先日テレビドラマで、強い者が勝つのではない、勝つ者が強いのだ、という有名なセリフを言っていました。この言葉の意味は矛盾を含んでいるようなところがあり、なかなか難しいと思うのです。理解するポイントの一つは、勝者と強者は同じではなく、別物であるという点があります。そして、論理的に考えるならば、勝者の集団と強者の集団の関係は集合でいえば、勝者は強者の集団の中に含まれており、強者であっても勝者ではない者が存在します。

音楽演奏でも同じことが言えます。つまり、上手な者がいい演奏をするのではなく、いい演奏をする者が上手なのだ、ということです。ここでも、上手な演奏家といい演奏をする演奏家は同じではありません。上手と言われていてもいい演奏をしない演奏家がいることになります。

サッカーで日本がブラジルに勝った試合がありました。そのとき日本は強いチームと思われていませんでしたが、これを踏まえると日本は強いチームだったのです。しかし、あれ、ということになります。つまり、それはたまたまであり、普通は負けることが多いからです。そして、日本より強いチームの方が多いのですし、ブラジルは当然日本より強いのです。ここから、勝負というものはわからない、というより、勝敗はその時だけの価値しかない、ということになります。そして、勝つ者が強い者と言うならば、それもその時だけのことであり、その後もそれは保証されるのではないのです。だからこそ、弱かったら試合する必要はない、などと言う人は一人もいないのです。やって見なければわkらないのです。

驚くことではないですが、演奏にも全く同じことが言えます。あまり上手と思われていない演奏家がいい演奏をすることがあるのです。そして、いい演奏をした演奏家がいつもいい演奏をするわけでもないのです。だからこそ、下手だと思われているのでから、演奏することは必要ない、ということも言えないのです。

多くのアマチュアは自分達にはいい演奏はdけいないと思っています。そう思っている人間にはいつまでもいい演奏はできません。しかし、いい演奏は自分達にもできると知っていて、練習するならば、それは可能なことなのです。そして、いい演奏をしたからといって、次もできるとは限らないのです。

オリンピックでも同じで、勝敗はその時限りの栄光であるはずですが、最近の商業主義と結びつき、また、人々の空想が結びつき、どちらかというと不幸なことに、現実をありのままに捉えることが難しくなっています。

コンクールもまた同じで、結果がその後の演奏を保証するわけではありません。さらには経歴もまた同じと言えますが、日本人はそういう肩書きに弱い人が多く、それだけで仕事ができるようになるのが普通です。本当に音楽を楽しみたいのなら、そういう知識は不要で、ただ目の前の音楽に耳を傾けるようにするといいと思います。
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docomoのメールがPCで受け取れなくなる [社会問題]

スマホの契約会社がくれるメールアドレスはパソコンでも同じように受け取れます。ところが、ドコモのメールについては、機種変更したその日から、パソコンではパスワードが違う、というメッセージが出て受け取れなくなりました。もちろんもう一度パスワードを確認して設定し直しましたが、全然ダメ。

電話で問い合わせたら、IMAPパスワードを入れないといけない、と言われ、つまり、ドコモが勝手にパスワードを付け加えて変更した、ということになります。説明されるままにIMAPパスワードを確認して入れましたが、状況は全く変わらず。

契約した店に聞いても、パスワードを入れ直せば大丈夫なはず、電話で問い合わせてもわかるはず、とのこと。

結論として、ドコモメールはPCでは受け取れない、としました。

実はドコモは前にもトラブルがあり、ガラケーの時にヒンジ部分が壊れたのに、外形部分は保証しないと、保証規定も勝手に守らないことがありました。また、家のインターネットをドコモ光に変更したところ、速度がガタ落ちして、プロバイダーと相談しましたが、どうしてそうなのかの原因はわからず。さらに、先日は度細かい線の大規模工事があって外で繋がりにくくなってストレスを感じるほどでしたが、工事については全く何の連絡もなく、HPで確認するまで原因不明でした。それもHPの情報と異なる時間帯も繋がりにくくなっていました。

ドコモはimodeなどを作って、インターネットで顧客の囲い込みという商法を平然とやった会社であり、ドコモは信用がおけない会社である、というのが個人的な意見です。

家族からはauに変えるなら変えてもいい、とは言われています。家族割無くなりますから、まんまと囲い込みに引っかかってはいますが。
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指揮者のテクニックについて [偉そうな一言]

ずっと気になっている指揮者のテクニックがあります。それは、指揮者の絶対的な目的であるタクトの示し方なのですが、多くの日本人の指揮者は、両手で振ってタクトを示します。例えば指揮者の右側にいるビオラのメロディであっても、両手で同じタクトを示したりします。はて、両手で一つのタクトを示すことはテクニック的にどうなのだろう。つまり、右手は指揮棒、左は掌のみ、これで同じタクトを示せるのだろうか。さらに、先の例のように、一つのパートに対しても両手で示すことは不要ではないか。

合唱だけでなく、オケでも実はアインザッツは多少幅があっても平気です。全くの同時でなくてもいいのです。ですから、そういう風に考えれば、両手で示し、タクトのポイントに多少の差があっても問題はないことになります。次に、オケ全部に示すときに、左側のバイオリンは違う動きをする左手があっては、右手の指揮棒は見にくいということはあり得ます。こう考えると、両手で振ること自体にはそれなりにメリットがあるのですが、では、指揮棒はいらないのではないか、むしろ指揮棒が優先するという意味になってしまいますから、両手で振っても指揮棒しか見ないことになります。実際ロシアの指揮者などはほとんど左手は表情などを示すだけです。こちらの方が明確な分見やすい、とは言えると思うのですが。また、個人的にいいと思っている指揮者も、やはり両手を使う場合がありますが、それは限定的で意図的であり、通常は指揮棒でタクトを示すのみだったりします。

指揮のテクニックというのは、色々流派とまではいかないのですが、色々なスタイルがありそうです。例えば、日本人学生指揮者の多くは、指揮棒と左手だけでなく、頭や上半身を使ってタクトを示してしまいます。誰もそういうことは教えていないはずで、それはやりすぎだと思いますが、どうも多くの日本人学生の共通の癖のようです。

本来はタクトを示すのは一つの動きに限る、というのがテクニックだとは思います。そのために指揮棒を使うのですから。左手が右手と同じ動きをするのは、合わせるという表現をしっかり指示するためである、と思います。もちろん、頭や上半身が指揮棒と一緒に動くのは、混乱の元ですし、基本的に醜い仕草であるとは思います。バイオリニストが体を動かすのと、指揮者が体を動かすのは全く異なる意味を持っているのです。
タグ:クラシック
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アイドルかアーティストか [偉そうな一言]

先日、友人達とアイドルについて、少し話をしたことがありました。どうしようもないテレビではいつものように、アイドル達をアーティストと呼んで、事実をごまかすことを平然とやっていますが、それでアイドルの一部をアーティストと勘違いしてしまう人がいるかもしれません。となると、逆にアイドルをアーティストとして見ることになり、日本のアイドルはパフォーマンスのレベルが低いと評価することになります。勘違いしているマスコミが勝手にハードルを上げているのです。これは今はよくある傾向で、世の中は天才だらけになっていますし、新作映画などでは感動する話とか、涙を流す物語など、なぜかハードルを上げるだけでなく、観衆の感じ方までもコントロールする気でいます。テレビがアイドルの評判を悪くすることになっていることなど全く気づいていないでしょう。さらに、このように安易にアーティストと呼ぶことで、真のアーティストを侮辱することにもなります。もちろん、真のアーティストは皆そういうことは気にしないでしょうが。

一応、日本のアイドルを好ましいと思っている私は、アイドルの可愛らしさを訴えますが、流石にアーティストとして評価するとなると、そういうレベルのいわゆるアイドルはいません。むしろ本人が自分はアーティストとしてやっていけると思ったりしたら、不幸だなと思います。しかし、大事なのはここで、アーティストでなく、アイドルで十分な価値があります。アーティストと呼ぶ必要はないのです。それがわかっていないから、テレビではアーティストと呼んだりしているのです。テレビでそういうことを言う人間はほとんどが何も知らない人間で、アーティストとはどういう存在かなど考えることもできず、勝手にそう呼ぶことが良いことだと浅知恵を使っているのです。

パフォーマンスが、アーティストと呼べるものかどうかは個人の意見によります。ですから、アイドルをアーティストと呼ぶことは自由なことです。しかし、なぜ、テレビでそう呼ぶのかというと、そこには前述のようにアーティストに対する無理解があります。そういえば、昔から味の専門家でもないタレントが食レポなどをしていますから、本当にテレビというところはいい加減なところで、言論の自由ばかり振り回し、言論の責任については全く放置しているのです。アイドルをアーティストと呼ぶ人間は、ティズニーランドはベートーベンの音楽やダヴィンチの絵画に匹敵すると言っているようなものでしょう。全く別の価値であることを理解できないのです。
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十年演奏を続けても上手くならないのは [バイオリニストの愚痴]

若い頃、とにかく自分が目立ちたいので、そういうバイオリン演奏をしてました。今から考えると、とんでもなく下手くそだったのです。しかし、そのことには気がつきませんでした。不思議なことではないかもしれませんが、アマチュアでそこそこ弾ける人は、案外自分の下手さがわかっていません。そして、目立とうという演奏をしようとします。かっこつけるわけです。自分の下手さが本当にわかっていたら、恥ずかしさで穴に入り、出ていたくなるなるでしょう。若い頃はそれでいいのです。それが未熟さであり、そこがわかるようになれば、自立してようやく自分の音楽の道を行けるようになるのです。

何十年も弾き続けていると、下手だった人も結構上手になります。ところが、これは普通ではありません。かなりの割合で、昔のレベルとほとんど変わらない人がいます。そういう人の多くは、昔から結構弾けると思われていた人々だったりします。そういう人は、自分よりはるかに上手な人はたくさんいるが、自分はそういう人とは違う。だから、そこそこ弾け、楽しめる程度で十分と考えているのです。あるいは、自分は大人になってからバイオリンを始めており、今から頑張ってもそこそこで、そんなに上手になるはずはないと思っているのです。確かに、一生かかってもパガニーニーのカプリス一つ、バッハの無伴奏曲一つもまともに弾けるようにはならないでしょう。

しかし、それでもきちんと練習を続ければ、演奏はどんどん上手になります。十年もすれば、自分自身それ以前とは全く違った演奏をするようになっているという自覚を持つようになります。それを、ほとんどのアマチュアの人は知りません。そして、自分はこんな程度で十分だと限界を決めて、結局共演者に迷惑をかけ、聴衆に苦痛を与えたり、少なくとも退屈にしているのです。そして、実は十年前よりも下手になっていることに気がつかないでしょう。

物事は進むか戻るか、成長するか衰退するか、上手になるか下手になるか、どちらかです。上手になるということは、下手になる部分と上手になる部分の差し引きで上手になっていることを示します。ですから、多少は上手になったと感じている程度であれば、大して上手にはなっていません。下手になっている部分に気がついていないのです。例えば、長い間続けていると悪い癖もついてしまいます。こういう部分は気がつかず、下手になっていることに気がつきません。また、いつも普通に弾ける部分は注意を向けることが次第に減ってきます。そして、そこは悪くなっているのに気がつかないのです。ですから、場合によっては、本人は慣れてきて上手になったと自覚しているかもしれませんが、総合的には下手になってしまっています。

まずは、上手になるのには限界がないことを知ることです。そして、実際にそういう人を見つけることができます。そういう人達と一緒に演奏を続けるならば、本当にどんどん上手になるでしょうし、それでも本人はまだまだ自分の未熟さを自覚しており、それがさらに本人を上手にする動機になるでしょう。

もし、周りの共演者が、現状満足、頑張ってもたかが知れているなどと考えていて、自己満足以外を求めていないならば、そういう集団と一緒に演奏するのは止めた方がいいです。悪い癖が移ったり、演奏の方向性も次第に同じになったりしてしまいます。英語で言うinvolved、つまり関係することで巻き込まれて同化してしまうのです。
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アマチュアに即したプロの指導とは [偉そうな一言]

市民オケを指導しているプロの方は場合によっては本当に大変だと思います。しかし、アマチュアには、プロと異なる特有の点があります。

プロのオケは2、3回の練習で本番ですから、多くのオケは危険な演奏は避けます。例えば、バイオリンパートによく現れる三重音や四重音は無理をせず、場合によってはdivにして分けて弾きます。もちろん、それは指揮者の指示の場合もあったり、あるいは逆に楽譜通り演奏することを要求する指揮者もいるかもしれません。危険をしないことはある意味プロでは当たり前なのでしょうが、それをアマオケにも要求する場合があります。危険な演奏はさせないのです。

当然のように思いますが、それはもう少し真剣に考える必要があります。つまり、危険を避ける演奏をすることによって、つまらなくなる場合があります。プロはある意味仕事ですし、それでもきちんと曲想を考えて演奏しますが、アマチュアは言われたことをするだけで、曲想まで考えて演奏などしません。一見するとそれは危険な演奏よりマシに見えますが、演奏自体もつまらないものになりがちで、本当にそれでいいのか、考える必要があると思います。アマオケはプロと違い、半年かけて10回くらいの練習は普通です。それにアマチュアは下手が当たり前です。危険を避ける安全策を取ることよりも、危険であってもやるべき演奏を目指すようにすることが、アマチュアには必要ではないかと思います。そして、どうしても無理な場合に、できる人だけやる、できない人は安全策の方をやる、などの柔軟性があっていいと思います。つまり、音楽に対する姿勢というと大げさですが、やはり、プロとアマにはそれなりの違いがあるので、それを理解してアマチュアを指導する方が、まずアマチュアのレベルも上がりますし、結果としての演奏もいろいろな意味で良いと思います。

よくある話かもしれませんが、学生の合奏団で学生達がこの曲をやりたいと言い、指導しているプロがそれは無理だと言いながら、引き受けてくれた、と友人が言っていました。結果は詳しく言っていませんでしたが、それが大きな経験になったことは確かです。もちろん引き受けるのはそれなりに望みがあるからで、絶対無理な時は引き受けたりしないでしょうが。

チャレンジということはアマチュアの特権です。少しでも可能なら、チャレンジ!がいいかと思います。
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氾濫する情報の恐ろしさ [社会問題]

飲酒運転で事故、とテレビなどで放映すると、その直後から飲酒運転が増えるというのは、テレビ関係者ではよく知られていることだと思います。しかし、残念ながら増える原因がテレビの放映そのものにある、つまりはテレビ関係者の責任であることはわかっていないことでしょう。飲酒運転の話を聞くことで、それやる人間がいるんだ、と知り、それなら自分もやろう、となってしまうのです。これらのことはかなり前からよく知られている原理で、模倣原理と呼んだらいいかと思いますが、残念ながらマスコミなどは真剣にこの責任問題について考えません。そして、今でも無責任に不要な情報を流し、模倣犯を増やしているのです。

ところが、これだけではありません。自動車の踏み間違い事故、あるいは高速道路の逆走、そして、最近の重大事故、こういうことを報道することで、そういう事故が増えるのです。これは模倣原理とは異なる原理です。実は、外からの多くの刺激によって、人は意識せずに自己暗示をかけてしまうことがあります。事故や病気に関しては、多くの人が意識せずに自分に自己暗示をかけ、病気になったり、事故を起こしたりする可能性があるのです。これは無意識暗示と呼べるかと思います。そして、実際に調査をしてみればわかると思いますが、それを統計的に裏付けることができることでしょう。

さらにテレビなどでは一面的な意見が常時公表され、それを聞いた人間が信じてしまうことがあります。これをやらないと病気になるとかです。その意見には一理ありますが、やはりそれを信じることで、自分が持っている免疫性や注意などが悪い方向へと働いてしまうのです。これは前述以上に非常に頻繁に見られることです。一面性洗脳と呼ぶといいと思います。

ですから、テレビやネットで、有害な情報は絶対に無意識でも聞いたり見たりしてはいけませんし、いかなる意見や説も信じてはいけません。それが自分の健康を守り、事故を起こさないように生活するための絶対的な条件になります。

この話を正しいと思ったら是非、同じようにネットで自分の意見として書いていきましょう。
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