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アイドルかアーティストか [偉そうな一言]

先日、友人達とアイドルについて、少し話をしたことがありました。どうしようもないテレビではいつものように、アイドル達をアーティストと呼んで、事実をごまかすことを平然とやっていますが、それでアイドルの一部をアーティストと勘違いしてしまう人がいるかもしれません。となると、逆にアイドルをアーティストとして見ることになり、日本のアイドルはパフォーマンスのレベルが低いと評価することになります。勘違いしているマスコミが勝手にハードルを上げているのです。これは今はよくある傾向で、世の中は天才だらけになっていますし、新作映画などでは感動する話とか、涙を流す物語など、なぜかハードルを上げるだけでなく、観衆の感じ方までもコントロールする気でいます。テレビがアイドルの評判を悪くすることになっていることなど全く気づいていないでしょう。さらに、このように安易にアーティストと呼ぶことで、真のアーティストを侮辱することにもなります。もちろん、真のアーティストは皆そういうことは気にしないでしょうが。

一応、日本のアイドルを好ましいと思っている私は、アイドルの可愛らしさを訴えますが、流石にアーティストとして評価するとなると、そういうレベルのいわゆるアイドルはいません。むしろ本人が自分はアーティストとしてやっていけると思ったりしたら、不幸だなと思います。しかし、大事なのはここで、アーティストでなく、アイドルで十分な価値があります。アーティストと呼ぶ必要はないのです。それがわかっていないから、テレビではアーティストと呼んだりしているのです。テレビでそういうことを言う人間はほとんどが何も知らない人間で、アーティストとはどういう存在かなど考えることもできず、勝手にそう呼ぶことが良いことだと浅知恵を使っているのです。

パフォーマンスが、アーティストと呼べるものかどうかは個人の意見によります。ですから、アイドルをアーティストと呼ぶことは自由なことです。しかし、なぜ、テレビでそう呼ぶのかというと、そこには前述のようにアーティストに対する無理解があります。そういえば、昔から味の専門家でもないタレントが食レポなどをしていますから、本当にテレビというところはいい加減なところで、言論の自由ばかり振り回し、言論の責任については全く放置しているのです。アイドルをアーティストと呼ぶ人間は、ティズニーランドはベートーベンの音楽やダヴィンチの絵画に匹敵すると言っているようなものでしょう。全く別の価値であることを理解できないのです。
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十年演奏を続けても上手くならないのは [バイオリニストの愚痴]

若い頃、とにかく自分が目立ちたいので、そういうバイオリン演奏をしてました。今から考えると、とんでもなく下手くそだったのです。しかし、そのことには気がつきませんでした。不思議なことではないかもしれませんが、アマチュアでそこそこ弾ける人は、案外自分の下手さがわかっていません。そして、目立とうという演奏をしようとします。かっこつけるわけです。自分の下手さが本当にわかっていたら、恥ずかしさで穴に入り、出ていたくなるなるでしょう。若い頃はそれでいいのです。それが未熟さであり、そこがわかるようになれば、自立してようやく自分の音楽の道を行けるようになるのです。

何十年も弾き続けていると、下手だった人も結構上手になります。ところが、これは普通ではありません。かなりの割合で、昔のレベルとほとんど変わらない人がいます。そういう人の多くは、昔から結構弾けると思われていた人々だったりします。そういう人は、自分よりはるかに上手な人はたくさんいるが、自分はそういう人とは違う。だから、そこそこ弾け、楽しめる程度で十分と考えているのです。あるいは、自分は大人になってからバイオリンを始めており、今から頑張ってもそこそこで、そんなに上手になるはずはないと思っているのです。確かに、一生かかってもパガニーニーのカプリス一つ、バッハの無伴奏曲一つもまともに弾けるようにはならないでしょう。

しかし、それでもきちんと練習を続ければ、演奏はどんどん上手になります。十年もすれば、自分自身それ以前とは全く違った演奏をするようになっているという自覚を持つようになります。それを、ほとんどのアマチュアの人は知りません。そして、自分はこんな程度で十分だと限界を決めて、結局共演者に迷惑をかけ、聴衆に苦痛を与えたり、少なくとも退屈にしているのです。そして、実は十年前よりも下手になっていることに気がつかないでしょう。

物事は進むか戻るか、成長するか衰退するか、上手になるか下手になるか、どちらかです。上手になるということは、下手になる部分と上手になる部分の差し引きで上手になっていることを示します。ですから、多少は上手になったと感じている程度であれば、大して上手にはなっていません。下手になっている部分に気がついていないのです。例えば、長い間続けていると悪い癖もついてしまいます。こういう部分は気がつかず、下手になっていることに気がつきません。また、いつも普通に弾ける部分は注意を向けることが次第に減ってきます。そして、そこは悪くなっているのに気がつかないのです。ですから、場合によっては、本人は慣れてきて上手になったと自覚しているかもしれませんが、総合的には下手になってしまっています。

まずは、上手になるのには限界がないことを知ることです。そして、実際にそういう人を見つけることができます。そういう人達と一緒に演奏を続けるならば、本当にどんどん上手になるでしょうし、それでも本人はまだまだ自分の未熟さを自覚しており、それがさらに本人を上手にする動機になるでしょう。

もし、周りの共演者が、現状満足、頑張ってもたかが知れているなどと考えていて、自己満足以外を求めていないならば、そういう集団と一緒に演奏するのは止めた方がいいです。悪い癖が移ったり、演奏の方向性も次第に同じになったりしてしまいます。英語で言うinvolved、つまり関係することで巻き込まれて同化してしまうのです。
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アマチュアに即したプロの指導とは [偉そうな一言]

市民オケを指導しているプロの方は場合によっては本当に大変だと思います。しかし、アマチュアには、プロと異なる特有の点があります。

プロのオケは2、3回の練習で本番ですから、多くのオケは危険な演奏は避けます。例えば、バイオリンパートによく現れる三重音や四重音は無理をせず、場合によってはdivにして分けて弾きます。もちろん、それは指揮者の指示の場合もあったり、あるいは逆に楽譜通り演奏することを要求する指揮者もいるかもしれません。危険をしないことはある意味プロでは当たり前なのでしょうが、それをアマオケにも要求する場合があります。危険な演奏はさせないのです。

当然のように思いますが、それはもう少し真剣に考える必要があります。つまり、危険を避ける演奏をすることによって、つまらなくなる場合があります。プロはある意味仕事ですし、それでもきちんと曲想を考えて演奏しますが、アマチュアは言われたことをするだけで、曲想まで考えて演奏などしません。一見するとそれは危険な演奏よりマシに見えますが、演奏自体もつまらないものになりがちで、本当にそれでいいのか、考える必要があると思います。アマオケはプロと違い、半年かけて10回くらいの練習は普通です。それにアマチュアは下手が当たり前です。危険を避ける安全策を取ることよりも、危険であってもやるべき演奏を目指すようにすることが、アマチュアには必要ではないかと思います。そして、どうしても無理な場合に、できる人だけやる、できない人は安全策の方をやる、などの柔軟性があっていいと思います。つまり、音楽に対する姿勢というと大げさですが、やはり、プロとアマにはそれなりの違いがあるので、それを理解してアマチュアを指導する方が、まずアマチュアのレベルも上がりますし、結果としての演奏もいろいろな意味で良いと思います。

よくある話かもしれませんが、学生の合奏団で学生達がこの曲をやりたいと言い、指導しているプロがそれは無理だと言いながら、引き受けてくれた、と友人が言っていました。結果は詳しく言っていませんでしたが、それが大きな経験になったことは確かです。もちろん引き受けるのはそれなりに望みがあるからで、絶対無理な時は引き受けたりしないでしょうが。

チャレンジということはアマチュアの特権です。少しでも可能なら、チャレンジ!がいいかと思います。
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氾濫する情報の恐ろしさ [社会問題]

飲酒運転で事故、とテレビなどで放映すると、その直後から飲酒運転が増えるというのは、テレビ関係者ではよく知られていることだと思います。しかし、残念ながら増える原因がテレビの放映そのものにある、つまりはテレビ関係者の責任であることはわかっていないことでしょう。飲酒運転の話を聞くことで、それやる人間がいるんだ、と知り、それなら自分もやろう、となってしまうのです。これらのことはかなり前からよく知られている原理で、模倣原理と呼んだらいいかと思いますが、残念ながらマスコミなどは真剣にこの責任問題について考えません。そして、今でも無責任に不要な情報を流し、模倣犯を増やしているのです。

ところが、これだけではありません。自動車の踏み間違い事故、あるいは高速道路の逆走、そして、最近の重大事故、こういうことを報道することで、そういう事故が増えるのです。これは模倣原理とは異なる原理です。実は、外からの多くの刺激によって、人は意識せずに自己暗示をかけてしまうことがあります。事故や病気に関しては、多くの人が意識せずに自分に自己暗示をかけ、病気になったり、事故を起こしたりする可能性があるのです。これは無意識暗示と呼べるかと思います。そして、実際に調査をしてみればわかると思いますが、それを統計的に裏付けることができることでしょう。

さらにテレビなどでは一面的な意見が常時公表され、それを聞いた人間が信じてしまうことがあります。これをやらないと病気になるとかです。その意見には一理ありますが、やはりそれを信じることで、自分が持っている免疫性や注意などが悪い方向へと働いてしまうのです。これは前述以上に非常に頻繁に見られることです。一面性洗脳と呼ぶといいと思います。

ですから、テレビやネットで、有害な情報は絶対に無意識でも聞いたり見たりしてはいけませんし、いかなる意見や説も信じてはいけません。それが自分の健康を守り、事故を起こさないように生活するための絶対的な条件になります。

この話を正しいと思ったら是非、同じようにネットで自分の意見として書いていきましょう。
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クラシック音楽の楽しみ以外の価値 [バイオリニストの愚痴]

一般論ですが、クラシック音楽は、それ以外の音楽、ポップスや民族音楽などと大きく異なる点があります。それはクラシック音楽のいわゆる名曲の名演奏を聴いたことがある人ならわかるでしょう。感動という言葉は不十分で、もっと自分自身に直接影響する何かという体験です。その体験がクラシック音楽から離れられなくさせます。こういう音楽は単に楽しみやくつろぎというものとは一線を画します。つまり、昔から人々が集まり、踊るときには音楽が使われました。また、食事の時の楽しみとして音楽が演奏されました。そして、今でもそういう楽しみや喜びのための音楽があり、それを求める多くの人々がいます。しかし、ある時から音楽は単なる楽しみからもっと違う価値を含むものへと変わりました。それはいわゆる芸術といわれるものです。そういう音楽は人々に様々な効果をもたらします。心の中に調和が生まれ、それは物の見方や考え方にも影響を与えます。一生それが作用し続ける、そういう音楽があります。

ところが、クラシック音楽は単なる楽しみだけのものになってしまった部分も出てきたと感じます。人々がそういうものよりもっと気軽なものを求めるからそういうことになったのではありません。作曲家や演奏家がそういう単なる楽しみだけのものを作り出すようになってしまったのです。そうなると、人々もそれでいいと思ってしまって、そういうものを求めるようになります。しかし、本来芸術は通だけのものではなく、誰にでもそれを受け取ることができるものです。モーツァルトはクラシック音楽に興味がない人にも心地よく響きます。聞く人が意識しなくてもそれはその人に良い影響を与えます。聞く人が単なる楽しみを求めてきても、芸術はその人に芸術としての価値を持って働きかけるものなのです。だから、芸術は作り出す人にその責任があると言っていいでしょう。そこには単なる楽しみや喜びだけではない価値が加わっています。

巧みなテクニックで演奏されたとしても、そこにこの芸術というものがなければ、実はもっと価値あるものが欠けた演奏で、そこには大きな差があります。その演奏を聴く人々は、単なる楽しみとして喜びを得られるかもしれませんが、終われば、それで全て終わりです。何も残りません。次に機会があった時に、演奏会に行くか、それとも友人達と美味しい料理を食べに行くか、判断をすることになるでしょう。もし、そこに芸術的なものがあれば、経済的、時間的な制約さえクリアできれば、必ず、この機会を逃すはずはなく、演奏を聴きに行くはずなのです。

芸術は、クラシック音楽以外にも存在します。ポップスでも芸術は存在します。また、明らかに軽い、楽しみのための娯楽に思える場合でも、それは芸術になり得ます。芸術も音楽同様、誰にでも開かれたものです。ですから、音楽だけでなく、もちろん絵画や彫刻だけでなく、料理にも、衣服やカバン、靴にも存在します。人の活動全てが芸術になる可能性があります。

しかし、クラシック音楽同様、芸術なるものは、なくなりつつあります。それをわかる人がますますすくなってきているようにも感じます。音楽とは本来芸術の範疇にのみとどまるものではなく、それ自体は決して悪いことではありません。ですから、単なる楽しみ、喜びの音楽があってもいいのです。そういうことが当たり前になったとしても、少なくともモーツァルトやダ・ヴィンチの作品がある限り、芸術が忘れ去られることは絶対にないでしょう。そして、一旦このことをわかってしまったら、単なる娯楽で演奏することは、非常にもったいないことであることもわかるでしょう。芸術の道を行くことは限られた人々にのみ可能ではことではなく、誰でも可能なのです。
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クラシック音楽の人気を向上させるには [偉そうな一言]

数十年前に比べるとテレビやラジオのクラシック音楽番組の数は減っています。これは単にクラシックの人気が落ちているからです。さらにひどいことに、クラシック音楽ではないのにクラシック音楽と呼んでいる場合がたくさんおり、テレビを通じて、それは広まってしまい、本当にクラシックは人気がないだけでなく、認知さえも怪しいものになっていると言えます。

昔、ある学生オケのエキストラに行ったとき、有名な指揮者が棒を振っていましたが、学生に対して延々と説教をするのでした。それは音楽的なことではなく、音楽に対する姿勢、つまりは出席状況や遅刻等のことでした。とはいえ、アマチュア相手にそこまで言う必要はないだろうと思いましたが、学生の方は指揮者の怒りをしっかり受け止めていて、むしろ私に対して不謹慎だと考えていたのでした。その指揮者だけでなく、昔はアマチュアとはいえ、音楽的姿勢だけでなく演奏などにも厳しいプロの指揮者は普通でした。ところが最近は、アマチュアと一緒に活動するプロの方は怒鳴ったり、怒ったりはしないようです。もちろん怒鳴らなくても音楽に厳しい方はおり、最初の音だけでも1時間練習するというオケもあります。何れにせよ、昔あれだけ厳しい指導があちこちであったのに、今は何も変わらないどころか、むしろ後退しているように感じます。

市民オケによっては、メンバー的には比較的上手な人が集まっているところもあります。それでも、ひどい演奏をするのが普通です。結局、達者に弾けても、単に自己満足の段階から抜け出ていなく、退屈な演奏なのです。もちろん、一部のオケは熱心で本当に楽しめる演奏をするところもあります。そういうところは、間違いなく指導するプロの指揮者がしっかりしています。常にメンバーが想定しているより高い音楽レベルを目指すように指導するのです。メンバーにとっては常に不完全で不満足な演奏という状態です。しかし、聴衆はそこにきちんと音楽を聞いているのです。当然、奏者自らに、アマチュアだからという妥協はあるでしょうが、しかし、決して自己満足などを目的にはしていません。

では、プロの場合はどうでしょうか。わたしはある東京のオケの定期会員として十年以上通っていましたが、ある時期にやめました。理由は単純で、その頃の演奏は全く良くないことが続いたからです。それほど高い料金ではありませんでしたが、これくらいの演奏でいいだろうという感じで、聴く方には音楽は伝わってきませんでした。プロでもそういうことはあります。今まで通りやっていれば客は来てくれる、と思っていたわけではないでしょうが、聞く前からどんな演奏になるかはわかるときもあり、途中で帰ろうかと思ったこともあるくらいでした。この程度で十分と決めてしまうと、実はそこに音楽的なものは全くないことになります。

聞きに来る人が楽しめること、これがないとクラシック演奏は廃れてしまいます。当然です。聞きに行っても面白くないのなら行くわけはありません。それはアマチュア中心の市民オケでも同じです。
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良い音楽と悪い音楽 [バイオリニストの愚痴]

写真家のよしだなぎさんがモロッコのベルベル族という遊牧民を探すテレビ番組で、ベルベル族の若い女性に砂漠生活のいいところを聞いたら、その子は、太陽が沈むのを見ることができること、と言いました。その美しさはある程度想像できますが、それよりも、その夕日から女性が受ける影響は大きく、精神的成長に影響を与えているのです。女性にとって、それはかけがえのない宝であることでしょう。

私たちの目に入ってくる視覚情報は、想像以上に精神に影響を与えます。日本でも美しい夕日は見られますが、毎日見られる人は限られています。しかし、夕日に限らず、毎日通る道の脇にある木をよく見てみるならば、その木が大変美しい姿をしていることを発見します。もちろん、それさえも見ることができない人もいることでしょう。そして、こういう並木というものも、いとも簡単に切り倒されてしまうのです。そして、道路沿いに並んでいるビルを見るといいでしょう。決してそれらは注意深く見る価値はありません。当然ですが、そういう観点から作られてはいないからです。つまり、建築設計者の多くは、ビルを見る者の精神への影響を考えて設計はしていないのです。

さらに、普段目にするものの多くは、夕日や木々と違って、人々の精神に悪い影響を与えます。視覚だけでなく、感覚対象は、すべて精神に良い影響と悪い影響に分けることができます。このことに注意している芸術家、設計者は皆無と言っていいでしょう。芸術と言われるものは全て良い影響を与えるということはありません。中には悪い影響を与えるものが多くあります。芸術以外に関しては、悪い影響を与えるものばかりと言えるでしょう。現代の社会はそういうもので、人々を堕落させる傾向に向けるようなものがたくさんあります。

音楽も同じで、良い音楽と悪い音楽があります。このことは昔の人間の方がよく知っていました。演奏するとき、単に楽譜を音にするだけでなく、表現というものにも注意しますが、実はこれだけではまだまだ足りません。良い音楽を作り出すことを探求し、それを実現することが大事になります。それは多くの人を助ける、大きな社会貢献になるでしょう。
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民主的なコンサートマスター [バイオリニストの愚痴]

以前、音大生とアマチュアの混合弦楽合奏団で弾いていた時のことです。十代の若いコンミスは忙しいせいで、本番の直前の練習から参加しました。そして、驚いたことに、その時にボーイングを書き換えたのです。それもあまり議論のあるようなところではなく、おそらく、練習不足の本人が弾きやすくするためだったのかもしれませんが、このようにトップがボーイングを決めるのは当たり前ですが、直前となると、やはりなぜという合意は必要でしょう。トップであってもやっていいことと悪いことがあります。

アマチュア主体の市民オケなどでも、トップがボーイングを決めたりしています。そして、これはあまり良くないぞ、というボーイングも当然あるでしょう。フレーズに一致していない、同じフレーズで弓順が異なる、スラーなどのアーティキュレーションが無視されるなど、弾きにくい、間違えやすい、音楽的に考察不足という、いろいろな問題があります。しかし、トップはそれを決められる権利があると思い込んでいます。しかし、よく考えてみればわかりますが、例えばボーイングはある程度団員の意見を取り入れた方がいいのです。ここに切れ目が入るのを避けるためにフレーズと弓の返しをずらしたとか、異なる表現にするためにボーイングを変えたとか、原譜ではスラーがついていないので外した、などの説明があるだけでも随分違います。もちろん、プロの方に相談できればそれが一番いいです。

日本人は特に、組織においては階層構造が当たり前と思われています。そして、いわゆる上の人間は偉いと、思い込んでいる人は多いでしょう。オーケストラにおいてもそうです。政治の世界では民主主義になっていますが、実は政治家はかつての王様などのように好き勝手に政治を行っていいというわけではありません。日本では全く誤解されていますが、市民が反対多数であれば、政治家が良いと思っていてもそれを行うことはできません。それが民主主義なのです。日本ではまだまだ大きな勘違いがあります。さらに、実は王様は好き勝手な政治を行っていいというのも、間違っています。優れた王は常に市民の立場に立ち、政治を行ってきたのですし、周りの貴族などの反対を押し切って強引にやることなどはしませんから、頭の悪い貴族でも理性によって納得してもらうという、この面倒なことが非常に大事になります。決して自分の好き勝手に政治を行っていたわけではないのです。

このことからは、王制であろうと共和制であろうと、どちらの制度の方がいいとかいうことではないと言えます。しかし、頭の弱い王の場合には、社会は乱れ、ひどいことになります。王が勝手にやりたいことをやる場合もあるし、貴族が王を利用してやりたいことをやる場合もあります。その点、民主主義ならば、その時代の市民にふさわしい政治が行える可能性が高いです。それでも、現在のように政治家が金と権力で自分達の票を確保するようになると、それ自体が政治家の知性の低さを示し、馬鹿な王と同じように好き勝手なことをやるようになり、社会はどんどん悪くなります。

話が大分ずれましたが、オケのトップも同じで、メンバーの意見をまとめたり、納得してもらってボーイングなどを決める、つまり民主主義的な方法の方が賢いです。自分はそこそこ上手と思っており、一面的な考えのボーイングを押し付けることができる、そういう権利を持っていると考えていると、やはり問題が生じる場合があります。弾き方も自分についてこい、という弾き方だったりしますが、みんなに合わせるようにトップが弾く方が良かったりする場合はよく見かけます。その方がパートの音が一つになるからです。そうでないと、結果的にそのパートはトップの腕前で頭打ちになってしまいます。だから、トップより上手な人は去ってしまうでしょうし、何人もいるパートの良さが全くなくなってしまうのです。市民オケにおいては、トップがダントツに上手でも、実は民主的なトップの方が全体として音がまとまるので、良い結果を生むと思います。
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なんだ!この音は [偉そうな一言]

よくある勘違いの一つは、演奏を聴いた時に感じることは、人には共通している、というものです。個人個人違いがあるのは、音楽や演奏に対する造詣の深さが違う、と考えられたりすることもあります。それは確かですが、しかし、全ての人にこれが言えるというわけではありません。統計を取ればそういう傾向を示すことでしょうが、だからと言って、目の前にいる人をそういう風に判断すべきではありません。実は個人個人の違いは常にあり、それは非常に大きいのです。各自がどこに興味があり、どこに注意を向けているかの違いは大きく影響し、結局、一つの演奏を同じ場所で聞いてもその印象は全く異なります。ですから、全く異なる印象を持ったとしても、その人を責めることにはなんの意味ももちろんありません。これは各自の自由なのです。

この個人差は、録音では多少は減りますが、それでも個人差は異なります。いい演奏だという点は認めても、何を感じたかは全く異なるものです。録音は、実は生の多くの部分が反映していません。だから、本番を聞いて良かったと思っても、録音を聞くとそこまで良くないぞ、ということは普通にあります。

前置きが長くなりましたが、実は今度演奏する曲を、youtubeで色々聞いていました。どれも素晴らしいのですが、なかなか気に入ったものがなく、結局色々聞くことになったのですが、ある演奏を聞いて本当にびっくりしました。上手さという点では、勝る演奏は他にあるでしょうが、そのSilverstein氏の演奏で本当に心が大きく動かされました。youtubeの大して良くない再生でそうなることがあるとは驚きでした。彼は既に亡くなっていますが、こうやって地球の反対側にいる全く縁のない人間がその演奏を聴き、心を動かされるというのは、本当にうれしいことです。

個人的な感想なので、人によっては全く異なる印象になるかと思いますが、冒頭からおお、という感じでしたが、他のことをしながら聞いていたら、2曲目で思わず手が止まりました(同じような音を生で聞いたことがありますが、それは今は洗足学園にも教えに来て、元気なフェデリコ・アゴスティーニ氏です)。共演している他の方も大変素晴らしいのですが、何よりもSilverstein氏からは音楽しか聞こえてこない、普通は自分という存在の主張が必ずあるものです。
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芸術の衰えていく国 [バイオリニストの愚痴]

ハードディスクに溜まったテレビ番組を見ていたら、素人がオーケストラと共演するという音楽番組がありました。素人とはいえ、みなさん上手なのは確かですが、なんでオーケストラが必要なの、というようなものも。番組制作者は、オーケストラと共演させると言えば、たくさんの応募があり、番組が盛り上がって視聴率が上がるだろう、という狙いなのでしょう。しかし一方、共演するオーケストラのことを何も考えていないように思います。ギャラを出す仕事なんだからお前らやれ、とは考えていないとしても、オーケストラ員をややバカにしているところがあります。もちろん、実際には、先生方の皆さん、本当に申し訳ないが、未来の音楽家や音楽を愛する人々のために是非よろしくお願いいたします、という話だったかもしれませんが。さらに言えば、オーケストラと共演するという餌で素人は喜ぶと、安易に考えているところもあります。素人の音楽家をもバカにしていると思います。これは仕方ない、とは思いますが。

日本の芸術分野の中で、これはひどいと思うのは演劇です。著名な演出家のものを見ましたが、怒鳴るだけで何を言っているかわからないのは普通。後ろ向きに話しているところは、観客を全く無視している構図。何か映画と勘違いしているところもあるような。もちろん、ここでもベテラン、実力派の若手俳優は素晴らしかったのですが、残念ながら演出家は単なる自己満足を押し付けているだけで、見ている側に立ったものではなかったのです。多くの芸術家はそこそこの才能はありますが、決して天才ではなく、独りよがりはダメなのです。バッハやモーツァル、ミケランジェロやダ・ビンチのような天才はそこら中にはいないのです。しかし、それでも良い作品を残し、良い演奏をする人々は非常にたくさんいます。その時、まさに天才の光が宿ったようなのです。

上記の番組制作者は、そういう芸術を全く知らず、単に視聴率を上げるために適当に思いついたことをやっているのでしょう。テレビというものはそういうものであり、それ以上のものを求めるのは視聴者のわがままであると言えます。しかし、芸術がどれだけ人にとって価値のあるものであるかを知っていれば、そういう番組制作はしないと言えるのです。そして、今、芸術を知っている人間はどんどん減ってきており、すべて商業主義が支配するようになってしまったと思います。だから、大して良くもないものが人気を持ち、本当に良いものは全く無視されるようになっているのです。そして、そういう時代には、天才は芸術分野には現れないのかもしれません。それでも、芸術の真の価値を知っている者はおり、それによって、少ないながら、その価値は繋ぎとめられているのです。それは著名なプロだけの話ではなく、本当に日常目にし、耳にするような、普通の人々によっても行われています。例えば、東京の街は醜いです。もし、町づくりに芸術の分かる人間のみかが関わっていたら、本当に人々の心は豊かになったでしょう。一部の建築家だけでは不可能なことです。
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